平成30年1月1日(月・祝)〜2月12日(月・振休)
文化交流展示室11室
臨済宗黄檗宗連合各派合議所、臨済宗妙心寺派、西日本新聞
江戸時代に数多くの禅画と墨蹟を遺し、いまもなお多くの人々を魅了し続ける二人の禅僧、駿河(静岡)の白隠さん〔白隠慧鶴(1686〜1768)〕と博多(福岡)の仙厓さん〔僊厓義梵(1750〜1837)〕。二人は活躍した時代と場所は異なりますが、いずれも庶民の教化につとめ、江戸時代の禅宗界に清涼な新風を巻き起こしました。白隠さんは、今日の臨済宗の法脈がすべてそのもとに連なることから、「日本臨済宗中興の祖」とされています。仙厓さんは、「扶桑最初禅窟」(日本で最初の禅寺)として栄西禅師が開いた博多・聖福寺の復興をみごとに遂げ、「博多禅」を守りました。
この特別展示は、白隠さんの250年遠諱を記念して、九州に遺る白隠さんと仙厓さんの代表的な禅画や墨蹟をご覧いただき、筆と墨を用いてそれぞれが描き表そうとした、禅のこころとかたちをご紹介しようとするものです。
*遠諱(おんき)=死者の祥月忌日を一周忌,三周忌と重ねていって 50回忌以上の年忌になるとこれを遠忌とよぶ。 100回忌以上になると 50年ごとに遠忌を行うが,一宗の開祖や中興の祖,あるいは寺の開基などのためにとり行われる。
白隠さん〔白隠慧鶴(1686〜1768)〕は、駿河(静岡)の原宿に生まれ、同地の松蔭寺を復興、郷里を拠点として民衆に禅を広め、数々の著作を刊行して「五百年間出」(五百年にひとり)の名僧とたたえられました。そのきわめてユニークな禅画は力強く魅力的で、海外からも注目されています。白隠さんが九州の土を踏むことはありませんでしたが、当地にも重要作品が伝わっています。それら名作の数々をご紹介します。
沼津市指定有形文化財
「白隠像」【展示期間】1月1日(月)〜2月4日(日)
眼光鋭く見開いた目、張り出した頬骨、固く結ばれた口、太く緊張した頸の筋など、気魄がみなぎっています。日本臨済禅を代表する一禅匠の貫禄を見事に表現しています。白隠さんは29歳の時、日向・大光寺にあった古月禅材(1667〜1751)の評判を聞き、古月に見えようと九州を目指しましたが、途中で中止。生涯、ついに九州の地を踏むことはありませんでした。白隠は、後年このことをとても惜しんでいたといいます。このたび本像が九州に初めて渡り、九州初公開となりました。
「達磨像」白隠筆
白隠は膨大な書画をのこしましたが、とりわけ多いのが初祖の達磨図。その代表作で、たいへん大きな作品です。画面の縦192cm、背の高い人でも、すっぽり収まってしまいます。ほとんどが顔、とても大きな眼が、じーっとにらんでいます。左上の「直指人心、見性成仏」(まっすぐに自分の心を見つめよ。仏になろうするのではなく、本来自分に備わっている仏性に目覚めよ)は、達磨による禅の教えの根本で、白隠の伝えたいメッセージでした。
ニターッと満面笑みのお坊様。福耳、タレ目、長い眉、白隠さん描くキャラクターとして頻繁に登場する布袋さんです。布袋さんは、両手を上げて紙を広げ、紙には何やら文字が書かれ、小人のような三人の童子がその文字をのぞき込んでいます。小人たちは私たち衆生の象徴です。二重の円に囲まれた顔と小人たち、なんと斬新な構図でしょう。広げられた紙は向かって右側が表、左側は裏を表わしていて、まるでメビウスの帯のように表と裏が無限に連続していきます。
近世初頭の九州に中国・明末清初期の禅風が吹き込まれます。黄檗宗の開祖・隠元禅師など、長崎に渡来した中国禅僧のもとに全国から禅僧が参集し、研鑽しました。これを契機に九州禅が活況を呈し、妙心寺派から多くの名僧を輩出します。なかでも日向(宮崎)出身の古月さん〔古月禅材(1667〜1751)〕は多くの弟子を指導し一派を形成、戒律を重んじる厳しい禅風で「西の古月、東の白隠」と称されるほど近世臨済禅の展開に大きな足跡を残しました。仙厓さんも古月派の法系です。近世九州の臨済禅の発展に重要な役割を果たした主な禅僧をご紹介します。
(部分)
道者超元(1602〜62)は中国・福建省出身の明僧で、慶安3年(1650)長崎に渡来し、崇福寺住持となります。崇福寺の道者のもとには、盤珪永琢(1622〜93)をはじめ多くの禅僧が参じました。日本黄檗宗を開立する隠元の渡来以前に多くの日本人僧俗を指導した功績は、日本禅宗史上見逃せません。拄杖と払子を手にし椅子に坐る真正面像という特徴から、黄檗禅と密接な関係をもつ肖像画家の手になると考えられます。
古月禅材(1667〜1751)は日向(宮崎)佐土原に生まれ、10歳のとき当地で出家。21歳のとき京都・妙心寺智勝院で修行、41歳のとき郷里の古刹大光寺の第42世となり、54歳のとき自得寺に退去します。この大光寺、自得寺時代、全国から参集する僧を指導し、古月派と呼ばれる多くの禅傑を輩出しました。その禅風は戒律を重んじるものだったようです。円相中に払子を持つ半身像で、賛者の翠巌従真(1683〜1772)は古月の法を嗣ぎ、大光寺第43世となりました。
仙厓さん〔僊厓義梵(1750〜1837)〕は、美濃(岐阜)生まれで当地で出家、19歳で諸国行脚に出、武蔵(神奈川)の東輝庵の月船禅慧の法を嗣ぎました。さらに諸国を行脚、「扶桑最初禅窟」(日本で最初の禅寺)として栄西禅師が開いた博多の聖福寺123世となります。23年住持をつとめ、寺の復興を遂げて「博多禅」を守り、幻住庵に隠棲しました。半世紀近く博多の地に生き、庶民と心の交流をした仙厓は、親しみをこめて「博多の仙厓さん」と呼ばれます。その禅画は人間味あふれ、ときにユーモアを発し、ときに鋭い社会風刺をこめています。本展では、聖福寺および幻住庵から仙厓さんの禅画・墨蹟と遺愛の品々をご紹介します。
数多い仙厓作品のなかでも最大級かつ最高傑作として定評のある作品で、73歳のときの作です。豊干は中国・唐代の僧で、虎にまたがって寺内をわたり歩くなどの奇行で知られ、寒山と拾得は、豊干禅師に養われたとされる隠者です。虎にまたがる豊干は、長谷川等伯の作品にもみられますが、子虎たちを引き連れて歩く姿は、ユニークなこと、この上ありません。人物や親子の虎のヘン顔は独特で、現代のマンガ顔負け。仙厓さんの解き放たれた自由自在な画境をしめす大作です。
幸せを呼ぶ福の神が、そろい踏み。仙厓さんキャラは、とにかく愉快です。大福茶とは、元旦に水をくみ沸かして入れた番茶を神棚に祭ってのちに家族で飲むこと。三つの福をひとつの福にまとめて、大福茶を一服する。一福と一服、掛詞[かけことば]を使いながら、福の三乗もの幸せを年頭に願う。そんな庶民たちの素直な願いを応援する、とってもめでたい画なのです。
仙厓最大の掛幅。気魄あふれる書は、『論語』『孟子』『韓非子』『老子』といった中国の古典からの引用と「世間の書画は人に笑われるのを嫌うけれども、ワシ仙厓の画は人に笑ってほしい」という言葉。画の亀は「亀は死んで占いに使われて尊ばれるより、生きている亀として泥の中で尾を引いた方がよい。高位高官になり束縛されるより、貧しくても自由に暮らす方がよい」(尾を塗中に曳く『荘子』)、鶴は「鶴の長い脚を切って、カモの短い脚に継ぎ足してやればいいと思うのは人間の勝手。鶴もカモもどちらも喜ばない。自然にいたずらに手を加えてはいけない」(断鶴続鳧『荘子』)といった老荘思想が念頭にあるようです。
みどころ満載!!
· 白隠さんと仙厓さんに注目した展覧会は、これまでも開催されていますが、ふたりの間に直接的な関係はありません。しかし実は、両者は九州禅の禅僧たちを介してつながっていました。その九州禅を代表する禅僧たちをご紹介します。· 硯や筆、袈裟など、仙厓さん遺愛の品々も出品されます。半世紀近く博多の人々と共に生きた仙厓さん、その面影にふれる、またとない機会です。
仙厓さんのユーモアやウィットに富んだ禅画に接すると、思わず笑いに誘われ、頬がゆるむにちがいありません。ユニークな仙厓ワールド、その楽しさ。初笑いは、九博の「白隠さんと仙厓さん」展でぜひ!!· 「禅画」は、その造形面の豊かさについても、近年、ますます関心が高まっています。白隠さんと仙厓さんは、「禅画」を代表するふたりに他なりません。ふたりの卓抜な禅画と墨蹟が一堂にならぶ本展は、最良の「禅画入門展」といえるでしょう。
禅画=禅宗の教義内容はもとより、禅の精神、たとえば悟りの境地といった本来「心」の領域に属するものを、絵筆に託して表した作品。姿かたちのない観念の世界を目にみえるものにするため、表現手段としては比喩的、あるいは象徴的なものになる。絵画表現における禅的なものといってもいい。禅画を描いた禅僧の代表が、白隠と仙厓。日曜日・火曜〜木曜日 *月曜日は休館日
9時30分〜17時00分(入館は16時30分まで)
*平成29年4月28日(金)より、毎週金曜日と土曜日の開館時間を20時まで延長。
| 個人料金 | 団体料金(有料の方が20名以上の場合) |
大人 | 430円 | 220円 |
大学生 | 130円 | 70円 |
鉄道: 西鉄を利用する
「西鉄福岡(天神)」駅から約35分 熊本、佐賀、大分方面から
JR「二日市」駅下車。 「JR二日市駅からのアクセス方法」を参照。
1. 徒歩(約12分)または西鉄バス(約6分)で「西鉄二日市」駅へ、「西鉄二日市」駅から西鉄太宰府線利用。西鉄「太宰府」駅下車、徒歩で約10分
3. 西鉄バスで九州国立博物館まで約30分(*1時間に1本運行)