開催日:平成29年12月19日(火)~平成30年4月8日(日)
博多遺跡群とは博多遺跡はJR博多駅から博多湾側の那珂川と御笠川に挟まれた南北1.6㎞、東西0.9㎞の範囲に広がる遺跡です。遺跡は大きく分けて東西方向に並ぶ三つの砂丘からなり、最も古く形成された東端の砂丘では約二千年前の弥生時代前期の土坑や中期の甕棺墓が出土しています。その後は各時代の墓や住居が連綿と築かれましたが、特筆するものとしては地下鉄祇園駅東側で古墳時代中期の全長56mを超える前方後円墳が確認された他、キャナルシティ近隣でも大型古墳が存在したと推定されています。八世紀頃になると地下鉄祇園駅の西側に一辺が100m程の官衙が築かれ、丸鞆など役人の身分を示す装飾品が出土していますが、官衙の性格など詳しいことは判っていません。
桔梗散双雀鏡
11世紀中頃に鴻臚館が廃絶すると、宋の商人たちは地下鉄祇園駅の北西側に住み着いて中国大陸との貿易を始めました。これが中世の交易都市『博多』の始まりです。「博多」は宋や元、明など中国との交易のほか、朝鮮半島や琉球、ベトナム、タイなどの東南アジアとの交易の窓口となりました。「博多」に持ち込まれた文物のほとんどは京や奈良、鎌倉など消費地である他の中世都市に運ばれましたが、一部は「博多」内で消費され、また運搬中に破損したものなどが「博多」に残されて発掘調査によって出土しています。また文物は「博多」から日本国内の消費地への一方通行ではなく、当時日本各地で生産されていた焼物などの様々な消費財が広範囲に流通するようになり、「博多」でも都市住民の生活を支えるために瀬戸焼や備前など国内各地から多くの文物が運び込まれました。また「博多」では金属器やガラス・骨角製品・石製品など様々なものが作られた痕跡が出土して、多くの職人たちが住んでいたことが分かってきました。
博多遺跡は前述のように弥生時代前期以降連綿と人の生活が営まれてきました。近代以降においても九州の経済の中心として発展を続けましたが、その近代以降の開発によって古い遺構は破壊されたと考える人も多くいました。しかし、1977年の地下鉄空港線工事に先だって行われた試掘調査により博多遺跡全体が盛土による整地を繰り返し、場所によっては4m以上盛土されていることや、その盛土のおかげで弥生時代以来の遺構が良い状態で残っていることが判明したのです。それ以来2017年11月現在で民間だけでも200ヶ所を超える発掘調査が行われた結果、多くの遺構と大量の遺物が出土し、古代末から中世の博多の様子が次第に判ってきました。
今回その発掘調査で出土した大量の出土遺物の中から11世紀中頃以降の国内外の出土品が「古代末から中世のわが国における貿易の広がりや、技術や製品の伝播と交流の実態を明らかにするとともに、港湾都市・商業都市に於ける生活実態を具体的に示す資料として貴重であり、きわめて重要な学術的価値を有している」と評価され、希少性、重要性、学術性に基づいて選んだ2138点が重要文化財に指定されました。今回はその中から東京国立博物館でお披露目展示された約百点を中心にいくつかのテーマに分けて展示します。
展示期間を二期に分け、平成三十年二月五日に遺物の入れ替えを行います。
前期では
①東京国立博物館展示品
②都市の住人たち
③一括埋納遺物
後期では
④住人の日常
⑤信仰
⑥墓
をテーマとして、内容は
資料として優れていると判断されて東京国立博物館でお披露目された陶磁器類を中心に展示します。11世紀後半から12世紀中頃まで白磁の洪水と言われるほど多量に出土する白磁。その後を継いで12世紀中頃から15世紀中頃まで主流だった龍泉窯系の青磁は全国に流通し、絵画にも碗や壺などが描かれています。この白磁・青磁の多くは大量生産品ですが、窯や時期によって異なる色合いを帯びていて、見る人の目を楽しませます。また12世紀は日本国内で陶器の大量生産が始まり生産された陶器が広範囲に流通しはじめる時期にあたり、博多遺跡でも瀬戸・常滑・渥美・東播・備前・十瓶山など中部・中国・四国地方で生産された陶器が出土する他、土師椀、土師皿なども人の移動に伴い近畿や山口地方の土器が出土しています。
磁州窯壺
11世紀後半以降、商人の街として発展した「博多」ですが、13世紀後半の元寇を契機として鎮西探題が設けられ、九州の政治の中心としての機能を果たすようになりました。そこには探題の北条氏を中心とした武士団が常駐したと考えられます。ここでは中世都市「博多」の住人であった武士・商人・職人に関連する遺物を展示します。武士が使用した武具、商人が取引の際に必要な銅銭や秤や重り、職人が使用した鍋など金属製品の鋳型や鉄滓、ガラスや石製品などの様々な未製品が出土しています。
博多遺跡では陶磁器が数点から数十点まとまって出土することがあります。これは貿易による「博多」の富が略奪の対象となったことや、当時多かった火事を避けるためと考えられますが、その中で40次調査と124次調査では百点近い陶磁器類が一括埋納されていました。二カ所とも冷泉公園北西側に位置し、当時は博多濱北西端の水際にあたります。そのような場所に埋めたのは、火災による被災を避けるためでしょうか。
これらを埋めた人はなんらかの事情で「博多」に戻ってきませんでしたが、彼らが埋めた一括遺物により私たちは遺物の同時性や当時輸入された陶磁器のセットを知ることができます。
住人たちが日常の生活の中で使用した日常雑器、茶道具、遊具などを展示します。
日常雑器とは調理道具や漆椀など食事に関係する道具類で普段の展示では陶磁器や土器が主となりますが、絵巻物など絵画資料をみると食事では漆椀も多く使われていたことが分かります。また、鏡、毛抜、櫛などの化粧道具や茶を碾くのに使用した石臼や天目茶碗、褐釉の茶入なども出土していて、住民の生活が豊かであったことが分かります。
括埋納土坑
信仰に関連するものとして仏像や数珠、舎利容器、経筒など様々な品が出土していますが、珍しいものでは博多小学校の調査でキリスト教の十字架やメダイ(キリスト教の聖人を描いたメダル)の鋳型が出土しています。これは日本に来た宣教師のルイス・フロイスが当時貿易で繁栄していた「博多」を重要視していたことや、「博多」の領主である大友宗麟が沖ノ濱に教会を建てたとする文献を裏付けます。
11世紀中頃から「博多」に住み始めた宋の商人たちの墓は今の聖福寺の所にあって博多百堂と呼ばれていたようです。12世紀から13世紀にかけては中国産陶磁器を副葬する墓が見られますが、集団墓ではなく屋敷墓という形態だったとされます。14世紀以降の墓はよく分かっておらず、都市の中から排除された可能性が考えられています。中世の墓の多くは棺を使用せず、直接墓穴に埋葬しています。棺もほとんどが木製のため腐ってしまい痕跡しか残っていませんが、29次調査で出土した12世紀後半の墓は棺材と担棒や副葬品をいれた曲物が出土して埋葬の様子が良くわかる資料です。庶民の多くは副葬品を持たず時代がはっきりしない墓も多いですが、「頭北面西」で埋葬された例もあり、浄土思想が多くの人に浸透していたことが分かります
土製の馬と犬
『中世都市 博多を掘る』海鳥社 2008
今回の展示のテーマや解説等はこの本を参考とする。
福岡市埋蔵文化財センター蔵
開館時間
午前9時30分~午後5時30分
(入館は午後5時まで)休館日
毎週月曜日※月曜日が祝休日の場合は開館し、翌平日休館
※年末年始の休館日は12月28日から1月4日まで