●L438『加納夏雄作 梅彫銅包銀急須』H:5.7cm
・村田氏
銅を使った夏生らしい作品だ。
本物の銘に違いない。
蓋裏にある『長友斎』の在銘は銀・鍛造をしたものの刻。
強く主張し過ぎない温かみのある琳派風の表現が魅力的だ。
空間を残す余白の美しさがある。
金の平象嵌で銘を彫るのは珍しい。
銅と銀の被せが難しく、巴紋がユニークである。
※加納夏雄
旧姓は伏見氏。
文政十一 年(一八二八)四月十四日に山城国愛宕郡柳馬場御池通りで米商伏見屋治助(天保九=一八三八年没)の子として生まれる。
天保四年(一八 三三)に六歳で刀剣商加納治助の養子となり治三郎と改める。
奥村庄八に彫金を習い、天保十一年 (一八四〇)に十三歳で池田孝寿に入門し弘化二年(一八四五)に十八歳で師家を辞し、翌三年(一八四六)に京都で開業し寿朗と名乗る。
この間に谷森種松に漢字を中島来章に絵画を学ぶ。
嘉永年間(一八四八ー一八五四)に夏雄と改銘した。
安政元年(一八五四)十月に二十七歳で江戸に出て神田お玉ケ池と永富町に住み、安政大地震のため翌年に佐久間町のあたらし橋側に転宅、文久年間に下谷長者町を経て和泉橋通り徒士町へ引越した。
明治二年(一八六九)に四十二歳で大阪造幣局へ出仕し新貨幣の原型製作を行い、同四年(一八七一)東京に戻り宮内省雇員となり、下谷青石横町に住む。
翌五年(一 八七二)に再び大阪に行き造幣寮に出仕し明治十年(一八七七)四月に東京に帰る。
明治十四年(一八八一)に五十四歳で内国勧業博覧会審査員となり、同二十三年(一 八九〇)に東京美術学校教授、帝室技芸員になり、六十八歳で従六位に翌年には高等官五等に叙される。
弘化三暦大簇初九蹄下寿朗、 安政三年仲冬左京人夏雄作、甲子春日夏雄於東武浩之、辛卯春日青石老人夏雄刻、行年七十一歳夏雄刻と銘する。
高彫色絵工法で鐔や小柄を造る。
後年は片切彫の作品 が多い。
明治三十一年(一八九八) 二月三日に七十一歳で没。
谷中霊園甲種第一号六側に埋葬し戒名は芳猷院励夏雄居士という。
名工。
家庭は三男二女で三男の秋雄が父の業務を継ぐ。
門人に海野勝珉、 香川勝広、塚田秀鏡、友雄、覚弥、勝守、文雄、隆雄を出し明治金工界に君臨した。
京都、東京市住。→寿朗